書ける漢字も平仮名に?

週刊誌(ポストだったかセブンだったか?)に「学校で習っていない漢字で名前を書いていけないと言われた」というような内容の記事が掲載されていた件に関して少し思うところがあり、それについて書いておきたいと思います。これ関連の日記を読みすぎて寝不足な馬鹿ですが、何か?

まず記事に悪意がありすぎると思います。初めに読んで思ったのが、保護者の意見しか書かれていないことです。何故教師がそういった指導をしたのか、という点については一切書かれていません。保護者には何の説明もされていないのでしょうか。教師側も頭ごなしに駄目というわけではないと思うのですが…。もちろん保護者の言い分も分かりますが、あまりにも一方からの意見しか書かれておらず、その辺りが不思議に思いました。
また、週刊誌にこれを求めるのは酷なのかもしれませんが、きちんと実状を調査された上で書かれた記事なのかも疑問に思います。少し聞きかじった教師一人か二人を取り上げ、全ての教師がそうであるかのように書くのはあまりにも危険ではないでしょうか。さらに、この児童の学年も書かれていません。低学年と高学年では全く違うのですから、一概に小学生全てが対象となっているということはないのではないかと思います。小学生と一括りにしてしまってはいますが、1年生から6年生まであるのです。発達段階やそれに合わせた学習指導要領もそれぞれ違うのですから。こういった記事や報道が学校教育を行いにくくしているような気がしてなりません。


私は大学で教育学部(そもそも教育大なので、学部は教育学部一択)で、現在はテストやドリルなどといった学校教材の編集の仕事を行っており、若干教育に関わった生活をしております。こういった環境のため、先輩や友人にも何人も教師がいます。そんな中で色々と考えてみました。以下、小娘の独り言です。

①保護者の「自分の名前くらい漢字で書かせろ」
この気持ちは良く分かります。名前は音だけではなく、それぞれの漢字に意味を込めて付ける場合が多いように思います。残念ながら私には子どもはいませんし、今後も出来るとは思えないので真実は分かりませんが大方間違ってはいないと思います。名前は自身を表すものですし、同姓同名の子も漢字で書いた場合には違うこともありますし、それで個人を識別しうる可能性も無視は出来ません。
また、個人的な意見としては自分の名前くらい漢字で書けないのは恥ずかしいことだと思います。もちろん学習障害等でそれが難しい場合は除きますが。ただ、教室内の掲示物や配布物は多くの児童が目にするものです。確実に読める文字にするのも思いやりなのかな? と思います。

②子どもの学習意欲を削ぐ これも分かります。子どもは興味を持ったことはとことん追求するものだと思っています。(今もそれが継続中の私はどうかと思います。)それは凄くいいことですし、スポンジのような吸収力を持っているうちに様々なことを自ら学ぶことはとても大切なことだと思います。それについてはしっかりと褒めて伸ばすのが大人の役目だと思います。そして、間違ったことをした場合にはしっかりと「叱る」。これがなかなか出来ていないと思います。私を含めて。

では何故学校では上記のような指導を行うのでしょうか。私自身も小学生の頃は同様の指導を受けていました。親はどう考えていたかは分かりませんが、その指導を知っていたら怒っていたでしょう。しかしガキだった私は全く何の疑問も持たずに従っていました。もちろん低学年の時には自分の名前くらい漢字で書けました。簡単な字ですし、一文字以外は3年生までに学習します。(苗字に至っては1年生です。)中学年にもなればクラスだけではなく、全校児童の名前くらいは漢字で書けて読めましたし。しかし、子どもなりになんとなく教師が何故そう指導しているのかを理解していたと思います。その時に考えていたことや現在になって思う理由は以下です。

③周りの児童は読めない
ここからは低学年を想定して書きます。高学年になってもこの指導をしているようであれば教師側がおかしいと思います。 
確かに自分の名前は書けると思います。しかし、学校には名前はまちまちだと思いますが、「集配係」なる係が存在する場合が多くあります。こういった係がなかったとしても、全ての集配物を教師が配っている状況はほぼないと言ってもいいのではないでしょうか。
低学年は何をするにも本当にゆっくりです。教育実習では1年生のクラスに配属されて約1ヶ月間一緒に生活をしました。その時に感じたのは、何かをさせようと思ったら私達が思う以上に全てに時間が必要なのだということです。登校してきて教科書を引き出しにしまうのに何分もかかりました。自分でやったら1分もかからずに出来るのに時間かかかるなぁ〜と思ったり、配られたプリントを綺麗に折りたたんでしまうのも一苦労だったり。そんな子ども達が配るのです。時間がかからない訳がありません。実際に35人分のノートを4人で配るのに10分近くかかっていました。その中には漢字で名前が書かれているノートもありましたが、それが誰のもであるかを先生や私達実習生に何度も聞いていました。それによってさらに時間がかかるのです。時間がない時のこういったことは本当に大変でした。
そういった点においても、低学年のうちは平仮名や習った漢字のみを使って書かせる指導は妥当な方法だと思います。ルビを振っておけばいい、といった意見をいくつも見ましたが、ノートに関しては正直これには反対です。それであれば私は平仮名表記の方がいいです。だって自分のノートなのにルビが振ってあるって不恰好ですもの。
そもそも低学年の児童の書く文字は多くの場合、非常に大きいです。そしてあまり整っていません。こんな言い方をすれば怒られるのかもしれませんが、読解が難しい文字が多いです。文字の形が取れていないのとバランスが悪いのが原因だと思います。そんな文字に大きくルビを振るのでさらに読みづらくなると思います。
因みにこちらの例は某国立大学附属の小学校での例です。一般の公立小学校ではありませんので悪しからず。


④間違った筆順と字形で覚えている可能性がある 
 個人的にはこれが一番の大きな理由です。文字は「正しく」書けてナンボだと思います。筆順をぐちゃぐちゃに書いた字は全く整っていません。それは子どもだけの話ではなく、大人であっても同様です。どうしてきちんとした筆順で書けないの? そんなことしてるからそんな字しか書けないんじゃないの? と非常に失礼なことを思ったこともあります。とめはねが出来ていない人には、そんな字はない! と言いたくなってしまいます。読めればいいとも思いますが、それは基礎が出来てからの話だと思うのです。筆順ぐちゃぐちゃで字形も整わないのに文字は書けるという状態では意味がないと思います。「見よう見真似で書いて漢字が書ける!」よりは「習った文字は正確に書ける」方が褒められることだと個人的には思います。もちろん、「習ってない文字も正確に書ける」というのが一番褒められることではあると思いますが。
 「右」と「左」の筆順の話は有名ですが、筆順が違うために形も全く違います。成り立ちも部首も違いますし。このように、似ている文字だからと言って同じ筆順で書いてしまえば形が違う文字を書くことになってしまいます。横長と縦長では大きな違いです。果たしてそれを「正しい」文字と言ってもいいのでしょうか。読めさえすれば言いというのは、それこそ漢字に対する冒涜だと思えて仕方がありません。さらに、筆順は筆で文字を書いた場合に顕著に表れると感じています。どこから筆を入れるかによって見た目が全く変わってくるからです。行書するとさらに不恰好です。筆順が変わる例もありますが、これは行書が単に楷書を崩して出来たからではないわけで…。

 間違っていたら直すように指導をすれば〜という意見も聞きます。全くその通りだと思います。それが保護者と教師の仕事です。ただ、間違ったことを正確に直すにはとても根気がいることです。この年になっても一度癖がつくとなかなか直らない、といった経験があるのではないでしょうか。だからこそ最初から正しく身に付けた方がいいな、とは思うのです。一度の指導だけで直るのであれば問題ないですが…。
 自発的に覚えたいのであればどんどん学習するのはいい事だと思います。私自身も勉強しないといけません。そのために、「どのようにして学ぶとよいか」を伝えていくといいのかな、とは思うのですが、それを仕事にどう繋げるかが今後の課題です。(凄く個人的なことですが。)

⑤最近の名付け
 話は戻りますが、最近の子どもの名前があまりにも本来の読み方とかけ離れているのも原因なのかな、と思います。例えば「騎士君」の例をとって考えたいと思います。「騎士」と書いて「ナイト」と読むと知ったときはびっくりしました。もちろん今はもっと凄い子もいるようですが、今回はそれについては触れずにいきます。
 日本語には熟字訓というものがありますので、漢字と読みが必ずしも一致するわけではありませんが、それはなた別の話です。例えば「弥生さん」がいたとしてもそれはれっきとした熟字訓であり、正しい日本語と言っても問題ないのではないでしょうか。しかし上記の「騎士君」はどうでしょうか。日本語で「騎士」は「きし」であって熟字訓ではありません。単なる当て字です。クラスの子の名前の漢字だからと言って教え、「騎士」と書いて「ないと」と読むと学習してしまったらどうでしょう。騎士は熟字訓ではありません。弥生は辞書で調べても正しい読み方だと分かります。しかし騎士君どこにもそのようなことは書かれていません。…馬鹿親の名付けばかりを集めたようなサイトでなら見つかるかもしれませんが。
 教師として、そういった本来読みとしてない(もしくは一般化されていない)漢字の読み方をあえて教えてしまっても果たしてよいのでしょうか。私はそういったことはやめていただきたいです。そんなことをすると余計に変な名付けの風潮が広まるだけではないかと思います。

⑥学校という場所
 学校は学習を行う場であることは間違いないと思っています。しかし、それは単なる教科だけではなく、社会性を身に付け、学習する場でもあります。これは散々大学の講義でも聞いたことですし、経験からも実感していることです。単に知識を得るだけでいいのであれば学校など必要ありません。家庭学習でも問題ないと思います。しかし、それで社会性など身に付くとは到底思えません。自分や家族以外の「他者」がいる場所であると同時に、他者の中で「自分」をどのように表現し受け入れてもらうのかを体で学んでいく場所なのだと思っています。それが他者との関わりということではないでしょうか。「自分だけよければそれでいい」では全く話になりません。そんな人が社会に出たら本当に恥ずかしいです。非難の嵐ではないかと…。
 私の大好きな相葉さん。(ここでぶち込む名前ではないかもしれません。)彼は小学校を「一番最初に経験する小さな社会」というようなことを雑誌だったかラジオだったかで言っていました。本当にその通りだなぁ〜と思って読んでいました。好きな人に対するひいき目なのでしょうか? それでも納得させるだけの力のある言葉だと思ったことを覚えています。

 で、最初に戻ります。自分の子は自分の名前が漢字で書けるのだから書いても問題ない! という主張についてです。そんな勝手な親に育てられているから勝手な子が生まれるんだと思ってしまいます…。浅はかでしょうか?  確かに教師の質が下がっているのも事実でしょう。しかし、それは同時に保護者の質も下がっているのだと思います。児童も保護者もお客様ではありません。何でも要求が呑んでもらえると思うのは大間違いです。自分の子どもだけがいい思いをすればいいと思って抗議するのはどうなのかな? と思うのです。もちろん教師側が間違ったことをしていた場合の抗議は当然必要だと思いますが、その辺りの見極めって難しいんですよね、きっと。
 保護者と教師の信頼関係って本当に大切だと思わされる瞬間です。


何だか訳の分からないことを長々と書いてしまった…。ちょっと後悔ですが、折角書いたので記録しておきます。これからもし自分もこういった状況になった場合、きちんと連携を取れるようになりたいと思いました。本当に教育って難しいですし、ね。まぁ、私には機会もないと思いますしあまり心配していませんが。

最後に、別に読める人向けに書くものには大いに知っている漢字使ったらいいんでないでしょうか? 子どもの自主的な学びを妨げるなんてしてはいけないことですし。でも、未履修の内容が分かっているというときには存分に褒めてやる気と能力を伸ばしたらいいんだと思います。
かなり教師擁護な内容になったように思いますが、先生の指導やクラスの実態に応じて柔軟に変えていくものじゃないんでしょうか。その先生のやり方に合わせるのも勉強だと思っています。教育の成果なんてすぐに見えなくて当たり前ですもん。

ただの小娘の戯言に食いつくような人はいないと思いますが、もし仮に何かありましたらご連絡下さい。
さて次はリーダー:大野について書くぞ〜♪